― 不良少年観察記 ―




 午前の授業が終わり、昼ご飯にしようと鞄を開いた三之桃はあるはずの物が見当たらなくてぎょっと眉を顰めた。

「うげっ……お弁当忘れた」
「えぇ? ったく、何してんのよ」

 心配しているようでいて、笑いながらそう言うのは友人の小木葵だ。
 桃は記憶を手繰って溜息を吐いた。

「あぁーあ、リビングに置きっぱだわ」
「どうするの、お金ある?」

 財布を確認するとお札が入っている。

「ある。しょーがない、ちょっと買ってくる。先に食べてて」

 言いつつ携帯と財布をポケットに突っ込んで歩き出す。後ろから葵の「はいはい、ごゆっくり」という投げやりな声が聞こえた。
 教室を出て一先ず階段を下りる。だがどこに買いに行こうか決めかねていた。
 ここ橋谷崎高校には売店も食堂も完備されている。味は美味しいし値段は良心的だから食事時の昼間などは弁当やらパンやらを求める生徒たちで戦場と化していて、今からそこへ乗り込むには億劫だ。
 悩んでいる合間に一階まで降りた桃はちらりと周囲を見回すと、売店や食堂とは正反対の方向へ歩き出した。

 コンビニに行こう。

 学校から歩いて五分ほどの距離にコンビニがある。校則では放課後でもないのに学校の外に出るのは禁止されているが、だからといって門に見張りが立っているわけでもないのでちょいと気をつければ抜け出すのなんて簡単だ。
 しかも今なら売店や食堂のほうに人が集まっているので生徒に見られる心配はあまりないし、教師については廊下で鉢合わせないようにすれば今の時間帯に外に出ている人は少ないから問題ない。後は窓から偶然見つかることを気をつければいいだけだ。
 校舎裏を通って裏門から出れば、あっさりと学校を抜け出すことに成功した。
 そして程なくしてコンビニに着いた。

「いらっしゃいませ」

 店員のお兄さんが気だるげな声で迎い入れた。
 桃はレジの前を通り過ぎ、おにぎりコーナーで立ち止まった。すでに半分ほど減っていて種類は少ない。選ぶ余地が限られていると逆に悩む。一番食べたいものはなく、残っているどれもが同じ程度の順位。

 うーん、おにぎりは諦めてパンにしようかなぁ。

 桃が方向転換をしようと一歩下がったとき、どんっと背中が誰かとぶつかった。

「あっ、すみません」

 他のお客がいることをすっかり失念していた。謝りながら振り返って、桃は固まった。
 そこにいたのは同じ制服を着た生徒だったのだが、桃より20cmほども高い長身と鮮やかな金髪が目を引く仏頂面の男。一目で誰だか分かった。同じ二年生でもっとも危険だと有名な守屋満である。
 桃の全身からさぁっと血の気が引いた。どんな難題を吹っかけられるやもしれない。最悪な未来の図がいくつも頭の中を駆け巡る。
 パニック寸前だったが目の前に守屋がいるのを思い出して、ぐっとお腹に力を込めた。恐怖や焦りの表情を表に出すわけにはいかない。
 守屋はしばらく鋭い目で桃を見ていたが「ん」と一言答えると他には何も言わずパンコーナーへ去った。
 拍子抜けして、桃は呆然と見送りそのまま暫く動けなかった。その間に守屋は素早くパンを4個選んで呆然とする桃をちらりとも見ずに通り過ぎてレジへ向かった。
 桃は機械人形のようにそれを視線で追う。

「4点で450円となります」

 やはり気だるげな声で店員のお兄さんは言い、商品を袋詰めしていく。
 守屋はポケットからカードを取り出すと慣れた所作でそれをカードリーダーに翳した。が。
 ピーッ! ピーッ! ピーッ!

「あ?」

 不機嫌そうな守屋に店員のお兄さんは機械を一瞥しただけで軽く「あぁ」と納得の声を漏らした。

「残金不足です。残り120円ですね」
「あぁ、なるほどな」

 それには守屋も頷いてさっきとは別のポケットから今度は財布を取り出した。残りは現金で払うらしい。
 当たり前な行為なのにそれが守屋というだけで桃が不思議に思っていると、ふいに守屋がこちらを向いた。

 ――え?

「わりぃ、120円貸してくれねえ? 後で返すから」
「………………はい?」
「足りねえんだ」

 ――話しかけられた? 私が、守屋に?

 まさかこのタイミングで話しかけられるとは露も思っておらず、返答どころではない桃に守屋は「駄目か?」と真っ直ぐな眼差しを向けた。
 真っ向からその眼差しを受けた桃は何度か瞬きを繰り返した後、落ち着いた足取りでレジに近づいて120円を払った。

「はい、では残りちょうどですね。ありがとうございました」

 店員のお兄さんから袋詰めされた商品を受け取った守屋はまたもや桃をじっと見た。
 桃はそろそろ頭が思考を放棄し始めたので投げやりに尋ねた。

「……何か?」
「クラスどこだ?」
「2組、だけど」
「そうか」

 それだけ訊くと守屋は踵を返してコンビニを去った。

 ……はぁ、なんだったんだろう。

 姿が見えなくなって、ようやく桃の心に余裕が戻ってきた。最後の方はいくらか平静ではあったがあくまで仮初めのもので、正直なところ、さっきまで生きた心地がしなかった。
 一度大きく深呼吸をすると全身から余計な力が抜けた。いかに肩肘張っていたか実感する。

「お客さん」

 と、なぜか店員のお兄さんが声をかけてきた。

「はい? 私、ですか?」

 困惑しながらも答えると、店員のお兄さんは桃の後ろを指差した。

「時間、ありませんよ」
「え?」

 指が指し示す先へ振り向けば時計の針が昼休みも残り20分しかないと示していた。

「うげっ!」

 桃は慌てて昼食選びに戻って、おにぎりを二個買った。
 120円は子供にお菓子を買ったと思うことにした。





 桃が教室に着けば昼休みは残り15分もなかった。
 確かにごゆっくりとは言ったけどね、と葵には呆れられたが責められはしなかった。代わりに苦笑一つをもらい、興味津々な瞳で事情説明を求められた。
 おにぎりを食べつつコンビニでの出来事を話すと葵は目を丸くして驚いていた。よく無事だったわね、と感心されたがそれは自分でも思う。しかしその後に「まぁ、さすが桃よね」と意味深長な台詞で話を締めくくられたのは納得いかなかった。
 そして昼食後の眠い眠い授業が終わり、10分休憩で桃が机に伏せっている時だった。
 騒がしい教室が急に緊張感を帯びたものへ変わった。
 何かあったんだろうとは眠い頭でも察せられたが起きる気にはなれず、あとで葵に訊こうと決めて無視を決め込んでいると、ややあって誰かが桃の正面にやってきた気配がした。
 葵かなぁ、と思っていれば予想外にも男の声が頭上に降ってきた。

「おい」
「……うぁ?」

 ちょっと寝させてと容易していた言葉は霧散し、桃は驚きから顔を上げた。
 するとそこにいたのはつい一時間ほど前に会ったばかりの守屋の姿が。

「うぇっ!?」

 仁王立ちで見下ろされる迫力に堪える間もなく慄いた。おかげで眠気は吹っ飛んだが理性も吹っ飛び、ぽかんと見上げる桃に守屋は右手の拳をずいっと目の前に突き出した。
 一瞬殴られるものかと怯んだ拍子に桃の理性は戻ってきた。周囲から痛いほど注目を集めていると気付いて、自分の中の平常心を総動員させる。

「何か?」
「これ、さっきの」

 何か渡したがっている、というのは伝わってきて、桃は拳の下に手の平を差し出した。

「ん。あんがとな」

 すると感謝の言葉と共に拳が開かれ、桃の手の平に何枚か小銭が落ちてきた。

「え……これ」

 120円だった。完全に返ってこないものと思っていた桃は手の平の小銭を呆然と見つめる。

 まさか本当に返しに来るだなんて。

 感心や慙愧という様々な衝撃が桃の中でせめぎあっていると、気がつけば守屋は目の前にいなかった。はっと教室を見回すと、今まさに教室を出るところだった。
 守屋の後姿を見送ってからもしばらく桃は扉をじっと見ていた。

「ちょっと桃、大丈夫?」

 葵が心配そうに駆け寄ってきた。流石に守屋の迫力には怖気づいて近寄れなったらしい。まぁ当然だろう。この学校で守屋に平然と立ち向かえる人がいるならぜひとも会ってみたい。

「大丈夫、大丈夫」

 桃は軽く手を振って答えるも、葵は疑い深い眼差しを向けてくる。

「本当に?」
「当たり前でしょ。ていうか大丈夫じゃない要素がなかったじゃない」
「いやいやいや、あの守屋が目の前に来たってだけで何されるか分かったもんじゃないでしょうが!」

 酷い言い草のようだが葵がそう言いたくなる気持ちも理解できる。その場にいるだけで他人を圧倒する威圧感と鋭い眼光は潜在的な恐怖を煽る。

「大丈夫だって。ほらコンビニで貸したお金を返してもらっただけだから」

 桃が手の平の小銭を見せると、葵はきょとんと驚いた顔になった。

「…………え?」

 葵も含めクラスメイト全員が遠巻きに見ていたので、守屋が何をしていたか、その守屋自身の身体が障害となって分からなかったのだろう。しかし、

「ふふっ、ふふふ」
「……桃?」

 込み上げてくるおかしさを堪えられなかった。
 だって考えるだにおかしい。あれだけ恐れられている守屋がまさか本当にお金を返しにくるだなんて誰が思うだろう。しかもわざわざ授業と授業の合間の休憩時間にだ。

「だ、だって…………ふふ、律儀な一面があるとか意外すぎる」
「え? 確かに、そうかもしれないけど」

 戸惑う葵をよそに、桃はくつくつと笑いが止まらなかった。





 教師がやってきたことで無事笑いは治まったものの、頭の中では終始守屋のことでいっぱいだった。授業もろくに話を聞かず、どうにか聞いている態で乗り切り、あっという間に放課となった。

「桃、帰ろ」
「うん」

 いつものように葵と下校するが、その時もやはり会話は上の空。自分でも不思議に思うほど好奇心の全てが守屋に向かっていた。

「ちょっと桃? 人の話、聞いてるの?」

 不機嫌さが滲む問いかけに、桃ははっとして我に返ったが話を全く聞いていなかっただけに返事が間抜けになる。

「……え? あぁ、うん」
「もーも?」

 半眼で見据えられては白状するしかない。

「……ごめんなさい。ぼーっとしてました」
「もう全く。さっきからずっとその調子だけどどうしたの?」
「いやぁ……そのー」

 まさか守屋君のことで頭がいっぱいでした、とは言いがたく曖昧に誤魔化そうと必死に頭を回転させるが、本気で心配そうな葵の憂い顔に白旗を揚げる。

「…………守屋君ってどんな人なんだろうなぁ、と」
「はぁ?」

 容赦ない胡乱気な反応に桃は「いやぁ、なんというか……ねぇ」と、しどろもどろになる。

「ほら、あの風貌で律儀とか意外すぎるでしょ。そういうギャップが興味をそそるというか……」
「意味分からない。本気で?」
「うん、まぁ」
「どこが? 何で?」
「だってさ、目の前にいると確かに怖いんだよ。けど貸してから一時間ほどで返しに来たんだよ? あの律儀さが意外でおかしくて……頭から離れなくて」

 葵は大きく溜息を吐いた。

「あのね、桃……確かに意外なのは私も思うけど、あの守屋よ? 噂は聞いてるでしょ? たかがそんな一面を見たからといって迂闊に近づくと碌なことないよ」
「……まぁね、まさにその通りだし、私もそう思ってる」

 守屋といえば、不用意に声をかけると殴られる、目線だけで教師を従えてしまう、20人の不良相手に無傷で返り討ちにする、等々正直疑わしいものから信憑性の高いものまで数多く噂がある。
 友達として危ない人と関わるなという忠告は理解できるし、実際守屋を目の前にしたら噂の全て信じてしまいそうなほどの存在感もあった。けれども、あの風貌と威圧感で意外と律儀というのは、

「ふふ、ふふふ」

 どうにもおかしい。考えるだに笑える。ギャップを狙っているなら抜群のセンスだ。

「桃?」

 そうだ。今は葵との会話に集中しないと。桃は笑声を堪えて震え声になりながらも考え考え言った。

「別に直接話そうとか思ってるわけじゃないの。ただね、うーん、少し観察していたいな、と」
「だとしても観察するには近くにいなきゃいけないわけでしょ。付きまとってるのがバレたらどうなるか分かったもんじゃないよ」
「本当にね」

 そこは冗談でもなく本当に桃もそう思う。観察といって迂闊に周囲をうろちょろしようものなら拳の一つぐらいもらってもおかしくない。しかしコンビニでのことを思うと、もしかしたら平気ではなかろうかという甘い期待も脳裏に過ぎる。

「もしかしたら殴られるかもしれない。けど殴られないかもしれない」
「正気? 殴られるに決まってるでしょ」

 それでも一度動き出した好奇心は治まってくれそうにないのだ。

「大丈夫。心配しないで!」
「桃……アンタねぇ」

 葵はまだまだ言いたげだったが晴れやかな顔の桃を見て、呆れたように大きく溜息を吐いた。

「分かったわよ。好きにしたら」
「ありがとう」

 満面の笑みでそう返せば葵は「それで観察って具体的にどうするの?」と投げやりに言った。

「そこなんだよね……不自然じゃなくて、かつ観察できるようなことってなんだろう」
「守屋とはクラス違うから観察するならまずクラスメイトに普段どこいるのか聞いてみたら?」
「そうだよね。じゃないと観察しようにも本人が見つからないなんて愉快なことに……けどいつもどこいるかとか知ってる人っているのかな?」

 今まで気にしてみたことはなかったが、考えてみると誰かと一緒にいる姿というのは見ない気がする。

「あー…………そこか。ならもういっそ休みごとにクラス押しかけたら?」
「ちょっと。さっきまでの心配はどこ消えた」
「だって他に案が思い浮かばない。諦めるっていう手もあるけど?」

 うぅ、と桃が唸っていると葵は「それか」と事も無げに続けた。

「今日みたいに偶然会うのを気長に待つか」
「それ殆ど諦めるようなもの……」

 言下に却下しようとして桃は言いさした。
 今日みたいに? 偶然?

「あっ! そうか、分かった!」

 目を輝かせて叫んだ桃に隣にいた葵は驚いて足を止めた。

「びっくりした。突然叫ばないで、何?」
「そうだよ、今日を真似すればいいんだよ!」
「はい?」

 葵を振り返って桃は高らかに宣言した。

「明日からお弁当止めて、昼はコンビニに通う!」





 今か今かと待ちわびた昼休み。財布と携帯をポケットに突っ込んで、桃はにまにまと不気味に笑いながら立ち上がった。

「葵、行ってくるね!」
「本当に行くんだ。ていうか、コンビニに行くよりクラスメイトに話聞かなくていいの?」

 言葉の割りに止める気はないようで席に着いたまま見上げる葵は顔や声に呆れを滲ませて言った。

「クラスメイトのほうはいいかなって。家でも考えてみたんだけどコンビニに行くほうが確実だと思う」
「何で?」
「カードを使ってたんだよ」

 桃は記憶を手繰りながら説明する。

「あそこのコンビニって専用のカードしか使えないんだよ。しかも他にグループ会社があるわけでもないから、わざわざあそこのカードを持っててそれで払うなんて、よく行ってるとしか思えない…………あれ? なにか変?」

 途中から葵が怪訝な目になっていた。

「……いや、よく見ているね」
「だってあそこのコンビニ行ったの昨日が初めてじゃないし、ぼーっとしててずっとレジ見てたし」
「ふーん」
「え、変なの? 何か変なの?」 

 葵の平淡な反応に桃は焦り出す。しかし葵は取り合わず「時間はいいの? なくなるよ?」とさもどうでもよさそうに促した。

「えぇー……分かった。行ってくる」

 話の切り上げ方が不本意ながらも桃は教室を後にした。
 なんだか落ち着いたテンションで廊下を歩く桃だが学校を出る頃にはすっかり心は守屋のことで一杯になり、心躍らせながらコンビニへ向かった。
 次第に早くなる足取りが止まったのはコンビニより10メートル手前のことだった。

 ……いた!

 制服をだらしない着方をした守屋が片手に鞄を持って向かい側から歩いてきた。
 ブレザーはボタン一つとして留めず、ネクタイは鎖骨より優に下で結び、ワイシャツの裾はズボンから出すという校則から大幅に外れた格好は金髪もあいまって見間違え様のないほど目立つ。

 やった。どんぴしゃ!

 にやりと口の端が釣りあがる桃は、しかしふと首を傾げた。

 いやけど、どうして向かい側から? もしかして今、登校?

 てっきり同じ方向から来ると思っていただけに意表を突かれた形だ。時々ふらりと抜け出す癖はあるものの真面目な桃からすれば朝からいるのは当たり前だが、相手は不良と名高い守屋だ。朝からいる保証なんてどこにもないのだと遅ればせながら思い至った。
 考えが足りなかったと軽く反省している間に守屋はコンビニへ入っていく。

 おっと、いけない!

 慌てて桃は後を追った。小走りで向かい、コンビニの少し手前で一時停止、深呼吸をしてから入店する。

「いらっしゃいませ」

 昨日と同じ店員が出迎えた。店内を見回すこともなく守屋の位置は分かった。棚から飛び出た金髪がパンコーナーにいた。
 姿の一部だけでひやりと背筋が冷える思いだが、それより好奇心が勝って桃に勇気を与える。よし、と内心で気合を入れて真っ直ぐパンコーナーへ向かった。
 自分も選ぶふりをして何気ない態で守屋から大人一人分の距離を開けて斜め後ろに立つ。存外と近い距離に自分から近付いたにもかかわらず肝を冷やす。

 大丈夫、ここまで来たら今更後に引けない!

 対面しているわけではないので辛うじて平常心でいられる。ぐっと堪え、好奇心の疼くまま横目でそっと窺う。
 守屋は棚をじっと鋭い目つきで見ていた。あちらこちら視線を動かしているものの全神経はパンに向かっているようで、こちらを気にする素振りは一切見せない。
 ややあって守屋の目線がぴたりと止まった。そして次々とパンを手に取る。総菜パンを2種類と菓子パンを2種類ずつ、全部で4個を選ぶと、もうパンコーナーには用が無いと言わんばかりにさっと身を方向転換した。
 とっさのことに桃は目を逸らし損ねたが、幸いなことに守屋は店の奥へ進んだので桃には背を向ける形となり、目を合わせずに済んだ。
 胸をなでおろして、観察を続行する。
 守屋は飲み物コーナーに行った。どうやらジュース類が並ぶ列を見ているようだが、パンコーナーから観察を続ける桃には詳しくは分からない。ならばその間に自分も昼食を選ぼうと視線を正面に戻したところで、飲み物コーナーの方から扉の開閉音が聞こえた。
 今度は早い選択に慌てて視線を守屋へやろうとして寸前で踏みとどまる。もしそのまま回れ右をしてレジへ来る途中ならば目が合いかねない。
 パン選びを再開して守屋を待っていると、一本向こうの列を守屋が通るのが視界の端に見えた。目の前を通られなくてよかったと密かに安堵しながら後ろ姿を目で追えば守屋は菓子コーナーで再び足を止めた。
 どんな菓子を買うのか、気にはなったもののどれだけ頑張ろうとこの位置からでは見えないし、ましてやまた傍に行くなんて大胆な真似はできないから会計の時に覗き見よう、と心の内に決める。
 と、守屋は今度もそれなりの早さで菓子コーナーを後にすると、あとはレジへ直行した。

 おっと、行かなくちゃ。

 桃はパンを2個だけ取ってレジへ向かう。小さなコンビニだからレジは一ヶ所。後に並ぶのは当たり前で怪しまれる余地はない。

「5点で550円です」

 店員がレジを操作しながら金額を告げる。

 5点……てことは、お菓子は買わなかったんだ。

 守屋の背で商品の殆どは隠れ、ジュースはグレープの炭酸だったことだけしか分からなかった桃には有力な情報である。
 守屋はやはりカードを取り出して、チャージした後、カードで支払った。よほど常連なのだろう、チャージとだけ言う守屋に対し、店員はいくらチャージするか訊ねるのではなく「五千円チャージでよろしいですか?」と確認したのだった。
 それから桃も会計を済ませ、今度は守屋の後を追うのではなく、ゆっくりと学校へ戻った。





 守屋の観察は基本的にコンビニだけに限定された。色々考えてみたが他クラスの自分が偶然を装ってごく自然に同じ場所に居合わせられるのはコンビニだけだという結論に至ったのだ。時と場所を限定しなければストーカーと言われても否定できない恐れがあるのも一つの要因である。
 そうして一週間が経ち、大きな収穫といえば『守屋はごく一般的な客である』ということだ。居合わせた客や店員に無体なことをするでもなく、乱闘騒ぎを起こすでもない。会計時もきちんと支払っている。当たり前のことだがその当たり前のことが新鮮で印象がどんどん良い方向へ上書きされる。とはいえ相対して恐怖心がないかと問われればそれはまた別の話だが。
 小さな収穫といえば『守屋の買う物はおおよそ決まっている』ということだ。パン4個とジュース1本が基本で中身は違うもののその割合は必ず同じ。例外としては時々菓子が加わったりもするぐらい。
 日課となりつつある道のりを進んで今日もコンビニへやってきた桃は、まだ守屋の姿が見えないので雑誌コーナーに向かった。恐らく少しの内に来るだろうから先に自分の昼食を選んでてもよかったが、今日はとある雑誌の発売日なのでそちらを優先する。
 二人の女性モデルが表紙を飾る高校生から大学生向けのファッション雑誌を手に取り、ぱらぱらと流し読みしていく。毎月欠かさずチェックしているが大方の流行を把握するのが目的なだけで情熱を注いでいるわけではないため、全ページを5分ほどで見終わる。

 まだ来ない、か。

 パンやおにぎりのコーナーに移っておこうか迷って、他の雑誌を見ることにして時間を潰す。
 しかし一冊、二冊と読み終わっても守屋が現れる気配がない。

 あれ……? なかなか来ない。

 時計を見ればさらに10分ほど経っていた。このままでは昼ごはんを食べる時間が無くなってしまう。

 どうしよう、戻らないと昼抜きになる……それは無理……でも、このまま戻るのも……

 桃はさらに5分ほど足掻いてみたが、それでも来なかった。自分でも驚くほど落ち込んで、適当におにぎりを2個だけ買って店を出た。
 とぼとぼと重たい足取りで学校へ向かえば行きの倍近くの時間がかかって、学校に着いた頃には昼休みも残すところ10分ほどしかなかった。気乗りしないながら階段を上がり教室へ向かう。近頃唯一の楽しみであっただけに大好きなおもちゃを取り上げられた子供のような気分で、急げば昼ごはんを食べる時間ぐらいはあるだろうに、これがなかなか急ぐ気にはなれなかった。
 つまらない。これから間もなく授業だと思うと余計に気分は急低下する。重たい足取りがどんどん重たくなって、しまいには階段半ばで立ち止まってしまった。

 ――授業はいいや。

 桃はふらりと踵を返して階段を降りはじめた。どうにも授業を受ける気分ではない。
 目的地があったわけではないが、とりあえず人気のないところを目指して気の向くまま、自分らの教室へと戻りつつある流れに逆らって歩き出した。

 どこ行こうかな。

 空き教室など探そうと思えば存外簡単に見つかる。極端に言ってしまえば各クラスの教室と職員室以外の殆どがそうである。その筆頭が特別教室である。もちろん、授業によっては特別教室を使ったりするから全部が全部ではない。それでも特別教室を使う授業が一桁を超えることはまずないので使用率は圧倒的に低い。他にも今は使われなくなった教室や、部室、倉庫に近い教室等々。趣向を変えれば立ち入り禁止となっている屋上や裏門近くの校舎脇とかもサボるにはうってつけの場所だ。屋上については鍵がかかって入れないので実際には階段の踊り場なのだが。
 どこもいまいちピンとこないまま桃はとうとう1階まで降りてきた。人目を避けるように職員室やら食堂とは反対方向に進んで、ふと扉が開け放たれた『視聴覚室』の前で足を止めた。
 小さいながらステージとそこそこ立派な客席があり、さながら小ホールといった部屋である。照明はついてないが窓から入ってくる光のみでほのかに明るい。それでいて次の授業で使う予定はないらしく誰一人いない。なぜ開いてるのか。不思議ではあったが誰もいないなら好都合だ。
 桃はふらりと引き寄せられるように中へ入った。
 視聴覚室の椅子は他の教室とは違って長時間座るのを加味されていてクッション性のある座り心地の良いものだ。どうせ座るなら座り心地の良い方がいいに決まっている。
 うっかり廊下から見られないよう左側奥へと進み、隅っこの席に座った。扉から見て左右に広いため、この位置はちょうど死角になる。
 備え付けの簡易テーブルを引き出し、そこに財布やら携帯、買ってきたおにぎりを乗せた。さっそく昼食にしようと手を伸ばして、はたと空で止まる。

 あ。飲み物買うの忘れた。

 苛立ち気に溜息を吐くと続いて苦笑いが込み上げてきた。うっかり飲み物を買い忘れてしまうほど自分は守屋に会えなかったことがショックだったのかと今更ながらに実感する。

 もういいや。たいして喉渇かないだろうし、我慢しよう。

 廊下を出て少し行ったところに自動販売機があるのだが今から行くのは面倒だ。たいして悩みもせず諦めると、おにぎりに齧り付いた。

 にしても、なんだかなー。

 食べながら思いを馳せるのは――守屋のこと。ここまで脳内に占めていると自分でもこれは恋情かと疑うもののどちらかと言えば好奇心からくる一方的な親近感という方がしっくりくる。
 パン棚を睨む姿、ジュースを手に取る姿、レジで会計する姿。ぱっと見の印象そのままに立居振舞は荒々しいが、よくよく見ると細々とした仕草が丁寧でおかしい。他の客がやってくるとさり気なく身を引いたり、守屋を見て恐怖に慄く人がいると嫌な顔一つせず別の棚へ移動したりするのだ。
 だからといって迂闊に近寄ろうものならどうなるかは知れたものではない。丁寧な部分よりも圧倒的に噂通り荒々しい印象が大半を占める以上、彼を優しい人だと言うには判断材料が足りない。

 もう一回ぐらいなら話してみても…………いや、無理か。面と向かって話すなんて……

 ぶつぶつ考えているうちにおにぎりを食べ終わり、満腹となった桃は次第に眠たくなってきた。

 いいや……寝てしまおう。

 睡魔に従って瞼を閉じれば即座に意識は沈んでいった。
 そして鐘の音で目を覚ますと時刻は4時間目終了の頃合いだった。
 座ったまま背伸びをして身体の凝りをほぐす。

 次の授業は出ないと。

 携帯をポケットに入れ、財布とレジ袋を持って立ち上がった。席の列から抜け出して段になった通路を降りる。もう眠気はほとんどない。ひと眠りしたおかげで気分も晴れやか。

 ……ん?

 前方を見て足が止まった。開け放してあったはずの扉が、ぴっちり閉まっている。

 閉まってる? あれ……おかしいな、開けてたはずなんだけど。

 開け放してあった扉を閉めると不自然だと思い、入る時あえて開けたままにしておいたのだが、誰か通りすがりの教師が閉めて行ったのだろうか。まぁいいか、と再び歩き始めた時、がちゃりと外から扉が開いた。

 うぇ?

 ぎくりと一瞬のうちに立ち止まる。どこ隠れようなんて考える暇もなく椅子の列へと身を隠す。通常の教室ならば意味を成さないだろうがここは視聴覚室。背もたれだけでなく肘置きもある立派な椅子が敷き詰められているのだ。屈めば回り込まれない限り十分に隠れられる。
 幸いなことに、扉を開けた主は入室する前に別の誰かから話しかけられたらしい。扉の向こう側で「――先生」と呼びとめる声がして扉付近で何やら話し声がしたかと思うと、扉が閉まる音がして静寂が戻ってきた。
 姿が見られなかったことにほっと一安心するも身動きが取れない状況となり、桃はしばらく隠れたままでいることにした。防音がしっかりされているこの部屋からは扉が閉まっていると外の音が一切聞こえない。まだ扉の傍に人がいるのか分からないため、部屋から出ることは敵わず、かといって部屋でのんびりしていて再び入ってこられようものなら大変だ。
 しゃがんでいるのも足が痺れるので地べたに座り込む。財布とレジ袋も床に置く。

「はぁ……」

 どれぐらい待てばいいんだろう。何事もなく教室に戻れるのがベストだが、ここはいっそ言い訳を考えて鉢合わせ覚悟で外に出た方が楽かもしれない。
 迷った結果、もう少しだけ待つことにして、次の授業も出れないと葵にメールをしておく。さすがに授業を連続でさぼると心配される。

 ――このとき、あまりに携帯と扉の向こうの人間に気を取られて、まさか桃が寝ている合間に他の人が入ってきただなんて露も疑わなかった。

「おい」

 ――だから、真後ろから聞こえた低い声に心臓が止まるかと思った。

「うぇ!? ……守屋君?」

 振り返った先にいたのは3席奥で簡易テーブルから身を起こした守屋だった。寝起きなのか守屋の目付きが凶悪なまでに悪いが桃は驚きすぎて怖いとかいうどころではない。

「お前もさぼりか?」
「え。う、うん……授業に出る気がしなくて」
「ふぅん」
「……守屋君は?」
「眠かったんだ」

 淡々とそう返され、桃も不思議と平静に「そう」と頷いた。
 人間は混乱しすぎると感情が麻痺するようになっているらしい。ここで守屋に会うということはもちろん、そのうえで普通に会話しているという現状に違和感を禁じ得ず、驚きでぎゅうぎゅう詰めになった桃の脳内は、思考停止して恐怖という感情が欠落してしまった。一週間ほど見てきて、少し慣れてきたというのもあるかもしれない。
 ここで会話終了かと思いきや、守屋は一拍置いてさして興味無さそうに訊ねてきた。

「お前、名前は?」
「三之桃」
「みゆき、か」

 守屋は納得した風情で呟いて「俺は守屋満だ」と分かり切ったことを言った。

「……え。知ってるけど」
「そりゃそうか」
「うん」

 そして再び沈黙。
 ややあって、またしても先に口を開いたのは守屋だった。

「よくコンビニにいるよな」

 観察していたのがばれていたのかと一瞬肝を冷したがどうやら単純な感想だったらしい。咎める気配も探る気配もない守屋にどもらないよう気を付けて答える。

「うん、食堂も売店も飽きて」
「ふぅん」

 興味あるのかないのか。いまいち守屋の思考は読みとれない。だが。

 聞くなら、今?

「そういえば、今日はコンビニいなかったね」
「んぁ?」

 荒い口調とは裏腹に、守屋は少し意外そうに目を瞬いた。

「あぁ……寝てた」
「ずっと?」

 重ねて訊ねると守屋は頷いて、それから考える素振りの後「起きたら昼休みが終わる頃だった」と明かした。
 だからいなかったんだと納得する桃に、守屋は何気ない口調で続けた。

「で、それから昼飯買って戻ってきたらお前がいた」

 へぇ、と頷きかけて途中で固まる。

 …………うん? 

「もしかして邪魔した?」

 すると守屋は眉を顰めた。

「んなことねぇよ」
「……へ?」

 言葉に対して表情と声が不釣り合いで混乱した桃は間抜けな顔になる。
 守屋は眉を顰めたまま――通常の精神状態だったら卒倒しそうな顔のまま、説明してくれる。

「だから……そういうつもりで、言ったんじゃない」

 僅かに怒気を孕んでいる気がするけれど、なぜだか拗ねる子供ように思えて、堪える間もなく吹き出してしまった。
 確かに粗野で粗暴かもしれないがもっと純粋な面があるのも事実なのかもしれない。

「ごめん、勘ぐりすぎた」

 一頻り笑ってから全てひっくるめて素直に謝辞を述べると、呆気にとられていた守屋がはっと我に返った。そして小さく鼻で笑うと、穏やかな笑みを浮かべた。

「変な奴だな、三之」

 対抗するが如く桃はにやりと笑った。
 きっと恐怖は完全に消え去りはしないが、仲良くやれそうだと心を躍らせた。

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